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Friday Column

No.087

『インスタントラーメンと私』

日清食品の創業者会長・安藤百福さんが亡くなったことを知り、何年ぶりでしょうか、日清の『チキンラーメン』を食べました。どんぶりにお湯を注ぐだけで出来る世界初のインスタントラーメン『チキンラーメン』、そして世界初のカップ麺『カップヌードル』を開発し世に送り出した安藤百福さんは、昭和の日本の食生活に、いや、世界の食文化に大きな変革をもたらした偉大な人物であり、とりわけ私のようなラーメン人にとっては特別な存在です。もちろんお会いしたこともありませんが、安藤さんの他界は決して聞き流せるニュースではなく、ここはひとつその偉大なる功績に敬意を表して食べておくべきだ、と買ってきて作って食べました。


日清のチキンラーメン

『カップヌードル』開発秘話はNHKの「プロジェクト X」で見たことがありますし、新横浜ラーメン博物館に行けば『カップヌードル』の誕生をショートアニメで見ることができます。安藤百福さんがどのようなことをやってきたどのくらいすごい人かは、インターネットでいろいろ調べて読んでいただくとして、ここでは“インスタントラーメンと私”について振り返ってみたいと思います。

私がインスタントラーメンを食べ始めたのは、たぶん1966〜7年頃でしょうか。最初に何を食べたのかはわかりませんが、時代的に順当に考えると日清の『チキンラーメン』か『マルタイラーメン』であるはずです。小学生になると土曜日のお昼にいろいろな銘柄を食べました。サンヨー食品の『サッポロ一番』、明星の『チャルメラ』、マルタイの『屋台ラーメン』、『これだ!』なんてラーメンもありました。たしかエースコックだったか『ワンタンメン』ってのもの好きでしたが、当時は具もなにも入ってないただの平べったい麺をワンタンとして意識しながらラーメンの麺と一緒に食べる、という今思えば儚いものでした。日清の『出前一丁』は、粉末スープの他に「ごまラー油」という透明の小袋があり、これを食べる直前に回しかけるというちょっとカッコイイものでした。自分で「ごまラー油」をかけるこの作業が、私に初めて“料理をする”ことを意識させたのかもしれません。

小学校2年生になると、インスタントラーメンくらいはすでに自分で作れるようになっていました。団地の一軒隣に住んでいた人生で最初の友人・松本俊一くん(1学年下)にもラーメン作りを教えてあげようと思いましたが、当時はコンロが一口しかなかったのでしょう。10数メートルほど距離があるそれぞれの家の台所の窓を開けて、大声で作り方をレクチャーしながらそれぞれのラーメンを作ったことをよく憶えています。「鍋が地獄谷になるまで待っとき〜」「地獄谷になったぁ〜!」「麺ば入れれ〜!」「入れたぁ〜」「お箸でほぐせ〜」「な〜ん?」「ほぐすった〜い」とそんな感じでやってました。

数年後『カップヌードル』という衝撃的なものが登場します。縦型のカップにお湯を注ぐだけでラーメンができて、しかもいろんな具が入っている。それをプラスチックの透明のフォークで食べる。そう、現在はカップ麺はお箸で食べるのが常識的ですが、発売当時の『カップヌードル』はお箸ではなくプラスチックのフォークで食べるものだったのです。それはそれはなんとも言い表しようのない違和感でした。また、この『カップヌードル』という商品名も小学校4年生くらいの思春期以前の福岡の子供にはショッキングでした。“ヌード”という響きが含まれたこの商品名を見て、“本当にいいのか?”“ボクは悪くないよね”的な猜疑心と好奇心とが混沌とする雰囲気に甘く困惑したものでした。でも子供だったんで柔軟だったんでしょうね、気がつきゃホイホイ食べてました。近所のスーパー「丸共ストア」には日清の『ジョイカップ101』、サッポロ一番の『カップスター』、イトメンの『カップジョリック』などの商品も登場し、片っ端から食べました。間もなくラーメンだけではなく、イトメンの『カップジョリック・きつねうどん』も横型カップで登場します。ものによって入っている油揚げの量が極端に違うのが逆におもしろく、“くじ引き感覚”でよく買ってました。

70年代も中盤くらいになると袋麺・カップ麺ともにいろんな商品が乱出しますが、中学生の私はそのほとんどを食べてました。新商品が出ると買って食べ、友達に「あれ、食った?」と聞かれた時に「食ったよ」と答えてその感想を言ってあげなきゃいけないような勝手な責任感もあったような気がします。この時期が私の“第1次インスタントラーメン期”です。とにかく目についた商品は片っ端から食べてました。高校2年の頃、学校のすぐ近くに新しくできたパンやお菓子を売る店の中に3人ほど座れるカウンターがあり、その店で袋入りのインスタントラーメンを買ってプラス20円払うと、その場で作ってくれてカウンターで食べれるという、おそらく非合法でありながらも画期的なシステムが登場します。ハウスの『うまかっちゃん』やら『日清焼きそば』やら学校帰りにプラス20円で作ってもらって食べてました。そのうち『うまかっちゃん』をダブルで注文するやつがでてきて、トリプルを注文してどんぶりに入り切らないと断られるやつもいました。

81年の上京からデビューまでの数年間は、仕送りもありバイトもやっていたものの、バンド活動や機材購入に多くの資金を投じていたため、食に関してはあまり豊かでない時代でした。インスタントラーメンは普通に食べてましたが、中高時代のようにすすんで楽しんで食べていたわけではなく、経済状況から思いのままの食事をできない時に、仕方なく安価なインスタントラーメンで“我慢する”という時代であったことはいなめなめなめなめません。しかし、もしこの時代にインスタントラーメンが存在しなかったら、私はいったい何を食べて我慢してたのか、と考えると容易に想像できません。そんな決して積極的とは言えないインスタントラーメン時代を経験したこともあり、デビュー以降の約10年間はインスタントラーメンを食べることはほとんどありませんでした。96年頃、レコーディングをしていたスタジオの出前環境の劣悪さのあまり、カップラーメンのほうがよっぽどいいじゃん、という思いですごく久しぶりにコンビニでカップラーメンを買ってきてスタジオで食べた時は、その味の進化に驚きました。「最近のカップラーメンってこんなに旨くなっちゃってんのぉ?」ってことで、その時期そのスタジオに行く時はコンビニで毎回違う種類のものを買って食べ楽しんでました。しかしそのスタジオ以外の普段の生活でインスタントラーメンを食べることはほとんどありませんでした。

そして2002年、私の“第2次インスタントラーメン期”に突入します。そう、パリです。このサイトの『ラーメンの世界』にも書いてますが、パリにもラーメン店は数店あるものの、残念ながらおいしくておいしくって通っちゃうかも!的なお店はありません。日本食材店で買うインスタントラーメンの小売価格は当然のことながら日本の倍。しかしパリの日本人にとっては重要な食材です。ならばこのインスタントラーメンをできる限り美味しく食べようじゃないか、という積極的発想から、私はチャーシュー作りを始めます。チャーシュー作りについて書き出すとえらく長くなりますんでキャッツアイしますが、これがだんだんだんだん上手くなっていくんです。異国のラーメン環境に同じようにつらい思いをしている友人にもよく振る舞い「お店みたい!」と好評価を受けたものでした。日本から段ボールいっぱいのインスタントラーメンを送ってくれたアレンジャーの小林信吾さんやデザイナーの太田広幸さんの恩は一生忘れることのできないものです。一杯一杯真剣に作っていたインスタントラーメンを御覧下さい。


 


 


帰国後は街中に本物のラーメンがあふれてるもんですから、インスタントラーメンを食べることはほとんどないまま迎えたこのお正月、安藤百福さんが亡くなったニュースを知りました。

そんな私のインスタントラーメンとの歴史を振り返ったりしながら、哀悼の意を込めて食べた日清の『チキンラーメン』は特別な味わいでした。うぅぅん、すべてはここから始まったんだ。そして、その“始まり”が50年近く経とうとしている今も多くの皆さんに親しまれているんだな、と思うとあらためてすごいです。

安藤百福さん、お疲れさまでした。ありがとうございました。
御冥福をお祈りいたします。


哀悼の一杯

2007/01/12


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