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嶋田 陽一(しまだ よういち)
95年秋の学園祭ツアーを除き、デビューから96年まで、すべてのコンサートに参加。デビュー初年度、リハーサル用の譜面に全パートすべての音符を書き込んでいた私に、バンド演奏用略式譜面の書き方を指導。91年は「母さん」、92年は「陽一(5年生)」、同年秋は「嶋田(高校生)」、93年は「ブリーフ星人」など、ライブアレンジにおける重要な役柄を本気で演じた。また92年秋、自ら作詞作曲した窮極的歌謡ポップス『いいんじゃないかベイビー』をKANのコンサート内で発表。94年、コンサートの最後にその日演奏された全曲のフレーズを繋ぎあわせ2分間のダイジェストにまとめて再演する“全曲つなげ”を発案するなど、KANのコンサートのあり方に大きな影響を与えた最重要人物のひとり。96年、「嶋田弁護士」としての弾き語り演奏を最後に、同年末「もう、ボクの仕事は終わったの」と言い残し去って行った。以降なかなか連絡が取れない。

生年月日・出身地 1957年11月5日 ・ 秋田県秋田市
最近の主な使用器材 Logic Pro.7 / REASON / KONTAKT
最も影響を受けた音楽家 PAUL SIMON / DR.JOHN / PINK FLOYD
趣味・特技・資格 ビックカメラに行く事 / キャンプでの米炊き / 鉄板焼き
基本的なプロフィール 18才の時、友人のミュージシャンに「東京に行こう!」と誘われて着いていったら、そこは仙台だった。仕方なく事務所に寝泊まりしながら、ハコバンをして生活をした。今度こそはと・・・着いていったら、そこは埼玉(ベースキャンプの近く)だった。そんな時、友人の知り合いのプロデューサーから電話があり、「オーディションに来ないか?」と誘われ、受けたのが太田裕美のバックバンドだった。これがプロ初加入。それから、伝説のバンド「GROOVY」で盛り上がり(あの御利益のあるアノ物体は、どこに行ったんだろう?)、まぁそんなことは「いいんじゃないかベイビー」・・・それから、えーと・・・・・いつのまにか、そこは東京だった。
つづく
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